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臼井真奈パイプオルガンコンサート

 

ドイツ在住の友達が、久しぶりに関東地方で演奏する。

会場は神奈川県民ホール、チケットの入手方法は、インターネット、電話、窓口とあった。

普通はまずここでインターネットを選択する。

ところが会員登録が必要で、さらに支払、発行、郵送という3種類の手数料がかかってくる。仕方ない、面倒だが電話か。

電話してみると、クレジットカード決済にすれば、手数料108円だけで、チケットがセブン・イレブンで受け取れるとのこと。しかも当日まで。

最近コンサートへ行っていなかったが、そんなシステムがあるのかと、ちょっとびっくりだった。

ただ、取りに行くのを忘れそうな気がする。そして受け取るための13桁の番号をなくしそうな気がする。

やはり早めにチケットを受け取っておこう。

 

author:Yoko Aoki, category:-, 14:50
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その音、奇妙なり

横浜開港資料館で開催中の「その音、奇妙なり 横浜・西洋音楽との出合い」を見てきた。
まず複製で、ペリー来航と軍楽隊、楽器をもつ女性たちの絵や写真による導入、そして、江戸時代の音に始まり、居留地の音楽や、軍楽隊の創設、讃美歌の誕生、音楽教育の始まり、横浜市歌の誕生など、決して広くはない中に、西洋音楽との出会いの側面を網羅している感があり、楽器もいくつか展示され、楽しかった。

居留地の音楽というテーマは、故笠原潔先生を思い出させる。先生は軍楽隊が演奏した曲目を調べていらしたが、今回の展示では、居留地に住む欧米の人々が開催したコンサートについて、新聞の広告や記事を拡大して紹介していた。中にGaiety Theatre (ゲーテ座)で1876年9月29日にC. Wagner氏が開催したコンサートの曲目、演奏者の詳細があった。名前を記される演奏家のほかにGentlemen Amateur による合唱などの記載があり興味深かったが、さらにコンサーティーナ・ソロの演奏もあり、日本語訳はスコットランド民謡としか書いてなかったが、Japan Gazetteには "Oh, Nannie, wilt thou gang wi' me?"との曲名があり、帰宅して調べた結果、曲を聞くことができたのも面白かった。

トミー・ポルカについては初めて知った。遣米使節団の見習い通詞、17歳の立石斧次郎(愛称トミー)がアメリカで人気となり、ポルカが作曲されたという話。この楽譜の1ページ目が展示されていたが、この曲は1階受付でもピアノ・ヴァージョンが流れていたし、YouTubeで聞く事もできる。

横浜市歌の古さについても改めて認識した。


 
author:Yoko Aoki, category:見た!, 15:57
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旧岩崎邸 撞球室

撞球室(ビリヤード場)が特別公開されると知り、久しぶりに旧岩崎邸に行ってみた。公開時間までかなりあったので、ボランティアによるガイドツアーに参加した。以前来たときにはなかった家具が配置されていたり、和館にも入ることができて、充実のツアーだった。そして

山小屋風、別棟の撞球室。この撞球室と洋館は地下道でつながっている。

今回はベランダで靴を脱いで玉突室に入ったが、地下室など非公開部分も案内してもらえる特別ガイドの日程が設定されているようだ。時間が合えばぜひ行ってみたい。
author:Yoko Aoki, category:見た!, 12:21
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出身地
 私は東京の病院で生まれ、市谷薬王寺町で育ったがそこでの記憶はない。2歳で横浜に転居し、小学校と中学・高校を横浜で出たので、出身地を聞かれると横浜と答えてしまうことが多い。けれど、その横浜を出て30年以上東京で暮らしていたので、東京の地名の方がなじみが多い。

 今朝の朝日新聞、夏目漱石の「それから」の出出し、「津守(つのかみ)を下りた時」にいきなり???と思ったが、さすがに解説に「松平攝津守(せっつのかみ)の屋敷跡の「攝津守坂」の略称」とあった。攝津守坂は知らないなと思ったが「現在の新宿区荒木町」に反応した。薬王寺の近くだ。市谷薬王寺の隣町、市谷仲之町に大学受験の頃勉強に通ったことがあったが、その時四谷三丁目駅から坂を降りていく右側が荒木町だった。
 「それから」は「士官学校の前を真直(まっすぐ)に濠端(ほりばた)へ出て」と続く。防衛省、自衛隊のあるところは士官学校だったのか。その頃から地図を出している。「砂土原町(さどはらちょう)へ曲がるべき所を」市谷砂土原町はルーテル市ヶ谷のあるあたりかな。「わざと電車路(みち)に付いて歩いた」、お堀端の道は、都電が通っていた。「牛込見附(うしごめみつけ)まで来た時、遠くの小石川の森に」、牛込見附は最初見当がつかず、『東京地名小辞典』を出した。飯田橋駅あたりだ。そして小石川の森は後楽園。「安藤坂(あんどうざか)を上がって、伝通院(でんずういん)の焼跡の前へ出た」、伝通院をでんずいんと読むのだと教わったのは、高校の頃だったか、大学だったか、「文京区役所の前の坂を上ったところに伝通院前という停留所があるでしょう」と先生が言った言葉を憶えている。行ったことはなかったが、そのあたりに伝通院という寺があることをその時覚えた。そして安藤坂を地図で探す。
 「それから」の代助は伝通院を左へ抜けて平岡の家のそばまで来るが、元来た道とは反対の方角に歩き出し、神楽坂上まで帰る。神楽坂はあまり知らないのでルートは分からないが、いったいどれだけ歩いたのか、実際に歩いてみたくなるような記述だ。

 こんなふうに地図を開きながら読んでみると、逆に横浜に土地勘がないことがわかる。小学校と友達の家の徒歩圏、公立中学へ進まなかったのでその範囲が広がることもなく、中学・高校周辺と電車の乗換駅である横浜駅近辺しか知らない。やはり私は東京出身というべきなのかな。
author:Yoko Aoki, category:-, 14:06
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クマばあさま
以前「ルーツ」というタイトルで、私の出自を書いたことがある。(2008.02.17)

福山藩阿部家に仕えた下級藩士の家に生まれた女と、津(あるいは久居)の藤堂家に仕えた下級藩士の家に生まれた男の間に生まれたのが私の父。

都城島津家の領地で医者をしていたらしい男の長男と、東京の出自不明の家の末娘の間に生まれたのが私の母。
母方の曾祖父については、戸籍が焼失してしまったためわからないままだが、曾祖母は、慶應2年9月18日生まれで、明治15年に望陀郡久留里村の鈴木某の妹として入籍したところまではわかった。その人の名はクマといい、それはお殿様につけていただいた名前だそうだ。

そのお殿様は誰かと調べる。

望陀郡久留里村は、上総久留里藩とすぐにわかった。
久留里藩最後の殿様は黒田直養(なおたか)。慶応2(1866)年4月2日に家督を継いでいる。まさにこの人だろう。

少し黒田家を調べるうち、クマという名に出会った。
黒田直養は第8代藩主・直和の養子で、父は第5代藩主・直方の七男・直古である。この直古の姉妹にクマがいた。クマは駿河田中藩の第5代藩主・本多正意の養女となり、備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の継々室となるが、のちに第9代佐賀藩主・鍋島斉直の五男・鍋島直孝の正室となった。鍋島直孝は旗本で、町奉行、大番頭を務めたが、朝顔の栽培家として名をなしたそうだ。

お殿様は、おば様の名前を曾祖母につけてくださったのではないか、そんな気がする。
author:Yoko Aoki, category:-, 12:00
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エジソンの蝋管
武蔵野美術大学の「ポピュラー音楽の世紀」展で、ディスク・オルゴール、蝋管蓄音機、SPレコード蓄音機の音を聞いた。

その中で、蝋管で再生された曲が面白かったので、曲目をメモしておく。

1909年から10年頃のもので、「ディキシー・メドレー」と聞いたが、そのメドレーは、
Dixie(Daniel Decatur Emmet)〜 My old Kentucky home(Stephen Collins Foster)〜Arkansas traveller〜Old folks at home(Stephen Collins Foster)〜Turkey in the straw〜Aunt Dinah's quilting party

冒頭のDixieは曲名を知らなかったがよく聞く曲。フォスターの2曲(ケンタッキーの我が家と故郷の人々)も有名。藁の中の七面鳥はフォークダンスで踊っているし、Arkansas travvellerは数年前にダルシマーで覚え、最後の曲(ダイナおばさんのパーティ)は先月覚えたばかりの曲。これらが最初のDixieのマーチのテンポで続いている。知っているメロディーが次々と出てくるのは楽しい。
author:Yoko Aoki, category:見た!, 20:56
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展覧会のはしご
2015.06.08

朝1番で日本リアリズム写真集団主催の第40回全国公募写真展「視点」へ。昔の職場の先輩が入選し、作品が展示された。そこへ昔の仲間が集まり、久しぶりの再会。
12時に上野を出なければならない人がいるため、10時半には会場を出てお茶と昼食。その後、もう少し時間のある2人でお茶してから、武蔵野美術大学へ。

「ポピュラー音楽の世紀」。武蔵野美術大学に寄贈された、中村とうよう氏のコレクション展。

1969年創刊の『ニュー・ミュージック・マガジン』も1980年に誌名変更された『ミュージック・マガジン』もほとんど読んだことがなかったし、1986年の『大衆音楽の真実』はその厚さに恐れをなし、手にとることもなかったが、ほぼ年代順に並べられているレコードのジャンルは、私自身のワールドミュージックへの興味と重なるところがあり、面白かった。

例えばとうよう氏にとって、1977年はアフリカ音楽元年、1984年はインドネシアのクロンチョンやスンダ・ポップ。私がそういう音楽に興味を持ったのはいつ頃だったのだろう。

「アジアン・ポップス」と背に記入したクリアブックの最初に入っているのは1990年国際交流基金アセアン文化センターによる「東南アジアポップカルチャー講座」のテキストだ。その年、初めてヴァカンスでマレーシアに行った。その時点ですでに、シーラ・マジッドの「Sinaran」(1989/9/27)を持っていて、飛行機の中ではマレー・ポップスを聴き、空港の売店でシーラのような曲はないかとカセットを探した。

KaomaのLambadaがヒットしたのは1989年、映画「タンゴ・バー」も1989年。多分そのあたりから、東京で世界料理を食べ歩くことも始めていた。音楽もアラブからアフリカ、ヨーロッパの民俗音楽へ、またラテン音楽へと広がっていったような気がする。

私の興味の展開を思い出すには、CDの整理をしなければならないということに気づいた。
author:Yoko Aoki, category:見た!, 23:23
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ポルトガル旅行8.リスボン最終日
7月25日

 リスボンを出発するのは午後。あと半日ある。何か見落としたところはないかと前夜ガイドブックを開いていた。すると、ケーブルカーで近くまで登ったのに、天正遣欧少年使節にゆかりのあるサン・ロケ教会を見逃したことに気づいた。半日には適当な距離だ。ホテルの朝食は飲み物しかないということだったので、また朝早くから出かける。

 朝食をとり、坂道ではなく長い長い階段を上る。教会はちょうど9時に開いたが、美術館は10時からだった。

 しばらく散策して時間をつぶすことにする。

 前日乗ったケーブルカーの終点の脇を通り、ウィンドウ・ショッピングをしながらさらに上の方へ。

 時間になったので美術館の見学。いろいろ興味深かったが、天正遣欧少年使節に関するものは何もなかった。
坂を下りてホテルに戻りチェックアウト。荷物を運んでもらいたかったが、掃除をしている女性しかいない。仕方なく自分で下ろしたため、かなりの時間がかかってしまった。さらに地下鉄に乗るエレベータを間違えたりして、空港についたのは結構ぎりぎりの時間。帰路も私が先で、先生は後の便。お茶を飲む間もなく、空港の雑踏の中でお別れして出国ゲートへ進んだ。



 これが初旅行となった私の新しいスーツケースは、もう一日旅を楽しんで2日後に届けられた。
(完)
author:Yoko Aoki, category:旅行, 13:55
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ポルトガル旅行7.コインブラからリスボンへ
7月24日

 この日の宿は朝食がないので(というよりは、遅かったので用意できなかったのだろうが)、朝早くから街を歩く。けれど、夜早く閉まった街は、朝も遅いようだった。歩き回り、振り出しの広場に戻ってようやく空いている店をみつけた。

 朝食を済ませ、ホテルに戻り、荷物をまとめてチェックアウト。荷物を預かってもらい、コインブラ大学を目指す。

 坂を登れば大学に通じる。本当にこのあたりかなと登っていったら、大学に到達した。

 大学内の教会らしき建物。これがカテドラルだった。
しばらくわけもわからず大学内をさまよっていたが、ようやくインフォメーションをみつけ、さらに見学を申し込む。集合場所は、ジョアニア図書館前。

 指定された時間にジョアニア図書館に入る。すると後ろから「皆さん、こちらへ」という英語が聞こえてきたので、その人の後について行ったが、どうやらその人はツアーバスのガイドだったようだ。
 前夜のホテルのことがあるので、コインブラであまりのどかにはしていられない。昼を食べて出発しようと坂を下りていったら古いカテドラルがあり、扉があいていたので見学。

 実はこれは朝の写真。下から登ってきたら偶然遭遇した。そして同じ道を通ったわけではないのに、帰りにもその脇にでてきたというわけ。この左の道を登り、右の道を下ってきた。

 カテドラルの回廊。カテドラルを出てすぐみつけた店で昼食をとった。

 この狭い道を車が下りていく。

 コインブラの街並み。
 ホテルに戻り、荷物を受け取って駅へ行くが、A駅からB駅への連絡列車がない。駅前のタクシーで移動し、B駅14:47発でリスボンへ移動。

 今回のホテルはすぐにみつかった。ただし、

この青い壁の上。入り口がわからず黄色のExchangeと表示のあるところで尋ねると、両替所の女性がインターホンで連絡してくれた。すると若い男性が下りてきて、私達の荷を持って階段をずんずん上がっていく。帰るときも持ってもらえるのだろうか?
 さて部屋についての交渉。最初は私の部屋に2人泊まれると案内されたが、ダブルベッドが1つ。他の部屋はないのか聞いたところ、幸い向かい側の部屋が空いていた。
 
 夕食には少し早いので、ケーブルカーでバイロ・アルトという高台へ行ってみる。

 雲に陰っているが、旅行2日目に行ったサン・ジョルジェ城が見える。

 高台を歩き、南の方へ坂を下る。やがてにぎやかな通りに出た。1軒だけ立ち寄ったのは古書店。その後はホテルのある通りの東側まで歩き、ポルトガル最後の夕食。

 
author:Yoko Aoki, category:旅行, 15:17
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ポルトガル旅行6.ポルトからコインブラへ
7月23日

 今日くらい朝食を遅くしようということになった。それでも早く起きてしまい、ホテル内を探索。

 ホテルから見たドウロ川。

 ラウンジ

 この日の客は私達だけだったようだ。
朝食後 Quinta de Santa Cruz を出発し、ポルトへ。

W. & J. Graham’s Port Lodge
 ポートワインのグラハム社を見学。ポルトには30を超すワイン工場があるそうだが、そのうちの1社。
見学のあとテイスティングができる。

 このグラハムのレストランで皆さんとの最後の食事。

 レストランから見た市街。

☆カテドラルへ
 車を路肩に停車させ、運転手を残しての見学となった。
途中で見たグレリゴス教会の塔。


この後、ポルト空港から帰国する人たちをそれぞれのホテルに送り、私達はカンパニャン駅へ送ってもらってお別れ。
ポスト・コングレス・ツアーはもりだくさんで、充実したものだった。

☆コインブラへ
 カンパニャン駅18:47に乗車。コインブラでは特急・急行の止まるB駅から市街地のA駅まで連絡列車で移動。A駅から5分ほどでホテルのあるポルタジェン広場に着いた。すぐにホテルは見つかったのだが・・・
 「えっ来たの? 6時到着って言ったわよね。6時に来なかったから、もう部屋はないわ」と先生が言われている。リスボンのホテルから電話をしてもらい、日程変更したその電話のことだ。私の部屋はあるが、シングル用だとのこと。
 途方にくれていると、ホテルのおばさん、どこかに電話をし始めた。そして
「2人一緒でいい? 朝食はなくてもいい?」と確認して、近くに空いているところがあったからと案内してくれた。

 チェックインしてすぐに食事に出かける。コインブラの店は閉まり始めている。ポスト・コングレス・ツアーでは昼も夜もフルコースだったので、学生向けのような軽めの店を選び、ポルトガルに来て初めてのビールを飲んだ。


 コインブラの夜の街並み。

 



 
author:Yoko Aoki, category:旅行, 15:09
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