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岩崎家のお雛さま
 20代の終わりごろ2年間だけさせてもらった仕事が、その後の人生に影響を与えている。その仕事は日本画の中に楽器を探すというものだった。それも研究者のサポートに過ぎず、毎週半日だけ画集の中の楽器の部分を写真撮影し、翌週はプリントをデータシートに張り付けるというだけの単純作業だったが、その研究に関わり、その研究所の研修旅行に行ったことで私の中に2つの趣味が生まれた。研究内容とは全く関係のない古寺建築とひな人形への関心だ。
 古寺建築に関しては、たまたま研修旅行先の博物館で岩波書店の『古寺建築入門』という本を手にしたことに始まる。高校生の時、修学旅行の準備で屋根の形に名前があることを知ったことは衝撃だった。それを増幅させるような内容に興奮し、写真中心のその本の専門用語に下線を引いて読み込んだ。そして内容を確認するために奈良へ旅に出た。その後も旅先に古寺建築があればそれを見に行っている。
 ひな人形への関心も多分そのころからだったと思う。古寺建築の旅の何回目かに京都に行き(京都は応仁の乱で焼けたので、古いものはないと後回しだった)、『月刊京都』という雑誌を入手したことに始まる。その特集記事、「京の雛遊び」に掲載された雛道具に魅了された。それを見たいと思ったが、京都までは簡単には行けないので、近隣で開催される雛人形展に足を運ぶようになった。そうしていくつもの人形展に足を運ぶうち、五人囃子ではなく五人の楽人が雅楽器を演奏していたり、お道具の中に昔の三曲の楽器(箏、三味線、胡弓)を見つけるようになり、それが面白くなってきた。例えば虎屋のお雛様には雅楽器、能楽器、三曲の他に月琴、琵琶、木琴が含まれ、明治という時代を感じさせる。
 
 今年は「岩崎家のお雛さまと御所人形」という静嘉堂文庫美術館の広告が目についた。静嘉堂文庫がどういうところか知らなかったが、岩崎家があの三菱の岩崎なら良いものが見られるかもしれない。チラシもホームページも見ずルート検索だけをして行ったのだが、人形が昭和初期に岩崎小彌太夫人孝子さんのため特注されたものだというだけでなく、戦後散逸したその人形15体と多くの道具類が京都の人形愛好家の手によって集められ、しばらく展示された後、昨年静嘉堂に寄贈されたという経緯もまた素晴らしいものだった。そして期待に応える楽器。
龍笛、篳篥、笙、五弦琴、箏、鉦鼓、楽太鼓、鞨鼓 そして三味線と胡弓。
箏が大きい。そしてその隣にもう一台あるのは琴?
目録には「ごげんのこと」とルビが振ってある。
私は邦楽の専門家ではないので、ぜひ邦楽器に詳しい人に見てほしいと思う。
author:Yoko Aoki, category:見た!, 19:27
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羽黒山五重塔特別拝観

たまたまそのあたりを旅行した人から、今年、羽黒山五重塔の特別拝観が行われていて、初重(一階)と二重(二階)を見られるという情報がもたらされた。私の大好きな五重塔のうちのひとつ。見に行ったのは20年以上前だろうか。

 

撮影したはずの写真も見つからず、古寺建築を見に行っていたころのノートにも記録がなく、いつ見に行ったのかも思い出せないまま、数年前に読んだ小説を取り寄せた。

 

久木綾子著  禊の塔―羽黒山五重塔仄聞

 

鶴岡から羽黒山頂行きのバスの所要時間を調べたり、新潟からの特急いなほを調べたりしながら10月の仕事のスケジュールを確認し、急に10月1日にホテルの空があることがわかって行くことを決めたのは9月半ばを過ぎてからだった。ところがちょうど台風が接近、心配もあったが、あまりに速く駆け抜けてくれたため、その後を追いかけるように出かけることになった。しかも計画運休の後のJRの混乱を避け、時間通りに上越新幹線に乗車した。

 

『禊の塔』は89歳の時『見残しの塔ー周防国五重塔縁起』でデビューした久木綾子さんの2作目。『見残しの塔』は山口県の瑠璃光寺五重塔を舞台としている。『禊の塔』は1作目ほどの厚さはないので、ちょうど電車の中で読むのに良いだろうと思ったら、まさに鶴岡に到着する直前に読み終わった。ところが天気の方は、確かに新潟から北上するにつれ悪くなってきていたのだが、観光案内所で情報収集して外へ出ると、雨だけでなく風も強くなり傘もさせなくなるほどだった。

 

チェックインしてしばらくすると、窓に叩きつけていた風雨が収まっているので、翌日の情報収集と街歩きに出かけることにする。鶴岡は五重塔を見に来たほかに、雛人形めぐりのツアーで来たことがある。観光案内所で入手した「つるおか駅からマップ」を見て「致道博物館」の名に記憶があったが、カトリック教会天主堂が重要文化財になっているのでまずそこへ行くことにした。ちょうど旅に出る直前に見た長崎か天草の教会のような、畳敷きの聖堂に黒い聖母像。最初の訪問地として良いところを選べた。

 

雨もそれほどひどくなかったので、徒歩で致道博物館へ向かう。途中「庄内藩校 致道館」の建物が気になり、案内板を読んでいると入るよう誘われた。ここは無料施設だがどこから来たかというチェックをする。こちらは4時半まで、博物館は5時までですでに4時を回っていたのでかなり時間的に厳しいが、入ってみることにした。そしてここで駅にあった「西郷隆盛ゆかりの地」という幟の意味を理解する展示と出会う。今年私は横浜の博物館で「戊辰の横浜」という展示を見ている。それも図録を購入して家で読み込むほど興味深かった。そういう事前の知識があると一室の小さな展示でも興味深い。特に地元の文化情報誌の記事をすべて読むには時間が足りず、翌日もう一度来ることにして致道博物館へ向かったが、こちらも30分で7棟の建物を廻るため駆け足になった。

 

翌日、朝は晴れているようだったが、雲が流れ時折雨風がひどくなる。前日と変わらぬ天気のようだ。当初の予定では五重塔から杉林の中の参道を山頂まで歩くつもりでいたが、この数日の天候を考えるとそれはしないほうがよさそうだ。9時半に観光案内所へ近隣の地図がないか聞きに行き、42分のバスで五重塔に近い羽黒山随神門へ。停留所から15分ほど石畳を歩くと塔が見える。拝観料を払い、初重へ。ここはもともと瀧水寺(りゅうすいじ)という寺のもので、初重の須弥檀には正観世音菩薩と軍荼利明王、妙見菩薩という三尊が祀られていたが、明治以降これらの仏像は行方不明となっている。初重を出ると二重の中を覗ける場が作ってあり、そのための急な階段を上る。ちょうど私の前は外国人で、英語で説明されていた。ほとんど腹ばいになるような形で中を覗きこむ。このような場所から塔を見るのは初めてだ。そして目の前には木組みがある。

 

外に出て脇の方へ向かうと、塔が良くみえるポイントがある。正面へまわり、もう一度近づいて水路を見、塔の歴史や特徴を書いた看板を撮る。バス停まで戻り、バスを待ち、駅までは行かずに途中下車。ちょうど目の前に、ランチタイム営業中の店をみつけた。

 

食後は駅からマップにあった旧風間家住宅 丙申堂へ。こちらも重要文化財。今回は本当に五重塔以外のことは何も調べずに出かけてきたが、この住宅もすごかった。豪商の明治時代のお屋敷。広いのだが、まわりにビルが立っているため、その広さがわからなかった。またマップではわからなかった屋根の造り。杉板を石で押さえてある。風間家別邸である無量光苑釈迦堂を見てから再び致道館へ。さらに致道博物館入口で販売していた資料を見に行く。近くのバス停に鶴岡駅行きのバスがすぐ来ることがわかったが、このままバスに乗っては少し早すぎると歩き始めたところ、大雨に会ってしまった。仕方なく次のバス停で雨宿り。

 

最後に帰路で食べる駅弁を探したところ、駅のコンビニに「庄内弁」を発見。庄内地域の旬の食材を使ったお弁当。旅のよいしめくくりとなった。

 

 

 

author:Yoko Aoki, category:見た!, 18:19
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和製ハロウィン? どこ?

ハロウインの日の朝見たニュース映像。最初を見そびれたのだが、かぼちゃやその他の野菜を飾り付けている。それがとてもユニーク。65歳以上の男性がする。しかも野菜を飾りつけるのは最長老の6人で、他の人達は竹串を削るだけ。それがどこの伝統だったのか、それが知りたく、夜になって調べる。

 

見たニュース自体はわかっている。NHKおはよう日本2017年10月31日午前7時台、その「じもトピ」というコーナーに「きょうはハロウィーン 日本でも400年以上前からこんな風習が…」、これを探したいのだ。しかしそれがなかなか見つからない。その後には「かぼちゃころがし」という風習も出てきた。これはこの言葉ですぐに発見。

 

かぼちゃ、伝統行事とかでは検索されない。あれこれするうちに、どこでどうひっかかったのか、

ぐるかん/2017年9月22日(金)/和製ハロウィン?天理の"御膳作り" 

が見つかった。それがどういうものかもわからないまま、そのサイトを見るうち、これが元だとわかる。内容はほぼ同じ。

そこでようやく「天理、福住」という地名がわかった。後から調べてぐるかんとは、ぐるっと関西おひるまえというNHKの番組だった。またすでにリンクは切れていたが、NHK奈良の「奈良ナビ」で9月20日に放送されたこともわかった。

その内容紹介には、

毎年9月15日に天理市福住町上入田地区で行われ、少なくとも400年ほど前から続くといわれる行事「お膳作り」を紹介しました。集会所にはかぼちゃやトマトなど、地元で収穫され寄進された野菜が集まります。その野菜を竹串にさし、組立てた「お膳」を仏様にお供えし、今年の豊作に感謝するというもの。組立てられた作品は、顔に見立てたもの、花を形どったものなどカラフルで愛らしいものが並びます。豊作を感謝する点や、かぼちゃをお膳の台座として多用することから「和製ハロウィン」と呼ばれることもあるといいます。この「お膳」を作るのは、満65歳以上の男性の仕事。作る形に決まりはなく、そのとき集まった野菜を見て決めるといいます。この伝統行事「お膳作り」に櫻井リポーターが密着。町の人々に親しまれ続ける行事の全貌と今回お膳作りを行う人々の思いに迫りました。

 

とある。こちらが先か。

あらためて「天理 福住 お膳」で検索すると、他の年の写真が出てくる。

この行事、面白い。

 

 

 

author:Yoko Aoki, category:見た!, 01:09
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臼井真奈パイプオルガンコンサート

 

ドイツ在住の友達が、久しぶりに関東地方で演奏する。

会場は神奈川県民ホール、チケットの入手方法は、インターネット、電話、窓口とあった。

普通はまずここでインターネットを選択する。

ところが会員登録が必要で、さらに支払、発行、郵送という3種類の手数料がかかってくる。仕方ない、面倒だが電話か。

電話してみると、クレジットカード決済にすれば、手数料108円だけで、チケットがセブン・イレブンで受け取れるとのこと。しかも当日まで。

最近コンサートへ行っていなかったが、そんなシステムがあるのかと、ちょっとびっくりだった。

ただ、取りに行くのを忘れそうな気がする。そして受け取るための13桁の番号をなくしそうな気がする。

やはり早めにチケットを受け取っておこう。

 

author:Yoko Aoki, category:-, 14:50
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その音、奇妙なり

横浜開港資料館で開催中の「その音、奇妙なり 横浜・西洋音楽との出合い」を見てきた。
まず複製で、ペリー来航と軍楽隊、楽器をもつ女性たちの絵や写真による導入、そして、江戸時代の音に始まり、居留地の音楽や、軍楽隊の創設、讃美歌の誕生、音楽教育の始まり、横浜市歌の誕生など、決して広くはない中に、西洋音楽との出会いの側面を網羅している感があり、楽器もいくつか展示され、楽しかった。

居留地の音楽というテーマは、故笠原潔先生を思い出させる。先生は軍楽隊が演奏した曲目を調べていらしたが、今回の展示では、居留地に住む欧米の人々が開催したコンサートについて、新聞の広告や記事を拡大して紹介していた。中にGaiety Theatre (ゲーテ座)で1876年9月29日にC. Wagner氏が開催したコンサートの曲目、演奏者の詳細があった。名前を記される演奏家のほかにGentlemen Amateur による合唱などの記載があり興味深かったが、さらにコンサーティーナ・ソロの演奏もあり、日本語訳はスコットランド民謡としか書いてなかったが、Japan Gazetteには "Oh, Nannie, wilt thou gang wi' me?"との曲名があり、帰宅して調べた結果、曲を聞くことができたのも面白かった。

トミー・ポルカについては初めて知った。遣米使節団の見習い通詞、17歳の立石斧次郎(愛称トミー)がアメリカで人気となり、ポルカが作曲されたという話。この楽譜の1ページ目が展示されていたが、この曲は1階受付でもピアノ・ヴァージョンが流れていたし、YouTubeで聞く事もできる。

横浜市歌の古さについても改めて認識した。


 
author:Yoko Aoki, category:見た!, 15:57
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旧岩崎邸 撞球室

撞球室(ビリヤード場)が特別公開されると知り、久しぶりに旧岩崎邸に行ってみた。公開時間までかなりあったので、ボランティアによるガイドツアーに参加した。以前来たときにはなかった家具が配置されていたり、和館にも入ることができて、充実のツアーだった。そして

山小屋風、別棟の撞球室。この撞球室と洋館は地下道でつながっている。

今回はベランダで靴を脱いで玉突室に入ったが、地下室など非公開部分も案内してもらえる特別ガイドの日程が設定されているようだ。時間が合えばぜひ行ってみたい。
author:Yoko Aoki, category:見た!, 12:21
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出身地
 私は東京の病院で生まれ、市谷薬王寺町で育ったがそこでの記憶はない。2歳で横浜に転居し、小学校と中学・高校を横浜で出たので、出身地を聞かれると横浜と答えてしまうことが多い。けれど、その横浜を出て30年以上東京で暮らしていたので、東京の地名の方がなじみが多い。

 今朝の朝日新聞、夏目漱石の「それから」の出出し、「津守(つのかみ)を下りた時」にいきなり???と思ったが、さすがに解説に「松平攝津守(せっつのかみ)の屋敷跡の「攝津守坂」の略称」とあった。攝津守坂は知らないなと思ったが「現在の新宿区荒木町」に反応した。薬王寺の近くだ。市谷薬王寺の隣町、市谷仲之町に大学受験の頃勉強に通ったことがあったが、その時四谷三丁目駅から坂を降りていく右側が荒木町だった。
 「それから」は「士官学校の前を真直(まっすぐ)に濠端(ほりばた)へ出て」と続く。防衛省、自衛隊のあるところは士官学校だったのか。その頃から地図を出している。「砂土原町(さどはらちょう)へ曲がるべき所を」市谷砂土原町はルーテル市ヶ谷のあるあたりかな。「わざと電車路(みち)に付いて歩いた」、お堀端の道は、都電が通っていた。「牛込見附(うしごめみつけ)まで来た時、遠くの小石川の森に」、牛込見附は最初見当がつかず、『東京地名小辞典』を出した。飯田橋駅あたりだ。そして小石川の森は後楽園。「安藤坂(あんどうざか)を上がって、伝通院(でんずういん)の焼跡の前へ出た」、伝通院をでんずいんと読むのだと教わったのは、高校の頃だったか、大学だったか、「文京区役所の前の坂を上ったところに伝通院前という停留所があるでしょう」と先生が言った言葉を憶えている。行ったことはなかったが、そのあたりに伝通院という寺があることをその時覚えた。そして安藤坂を地図で探す。
 「それから」の代助は伝通院を左へ抜けて平岡の家のそばまで来るが、元来た道とは反対の方角に歩き出し、神楽坂上まで帰る。神楽坂はあまり知らないのでルートは分からないが、いったいどれだけ歩いたのか、実際に歩いてみたくなるような記述だ。

 こんなふうに地図を開きながら読んでみると、逆に横浜に土地勘がないことがわかる。小学校と友達の家の徒歩圏、公立中学へ進まなかったのでその範囲が広がることもなく、中学・高校周辺と電車の乗換駅である横浜駅近辺しか知らない。やはり私は東京出身というべきなのかな。
author:Yoko Aoki, category:-, 14:06
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クマばあさま
以前「ルーツ」というタイトルで、私の出自を書いたことがある。(2008.02.17)

福山藩阿部家に仕えた下級藩士の家に生まれた女と、津(あるいは久居)の藤堂家に仕えた下級藩士の家に生まれた男の間に生まれたのが私の父。

都城島津家の領地で医者をしていたらしい男の長男と、東京の出自不明の家の末娘の間に生まれたのが私の母。
母方の曾祖父については、戸籍が焼失してしまったためわからないままだが、曾祖母は、慶應2年9月18日生まれで、明治15年に望陀郡久留里村の鈴木某の妹として入籍したところまではわかった。その人の名はクマといい、それはお殿様につけていただいた名前だそうだ。

そのお殿様は誰かと調べる。

望陀郡久留里村は、上総久留里藩とすぐにわかった。
久留里藩最後の殿様は黒田直養(なおたか)。慶応2(1866)年4月2日に家督を継いでいる。まさにこの人だろう。

少し黒田家を調べるうち、クマという名に出会った。
黒田直養は第8代藩主・直和の養子で、父は第5代藩主・直方の七男・直古である。この直古の姉妹にクマがいた。クマは駿河田中藩の第5代藩主・本多正意の養女となり、備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の継々室となるが、のちに第9代佐賀藩主・鍋島斉直の五男・鍋島直孝の正室となった。鍋島直孝は旗本で、町奉行、大番頭を務めたが、朝顔の栽培家として名をなしたそうだ。

お殿様は、おば様の名前を曾祖母につけてくださったのではないか、そんな気がする。
author:Yoko Aoki, category:-, 12:00
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エジソンの蝋管
武蔵野美術大学の「ポピュラー音楽の世紀」展で、ディスク・オルゴール、蝋管蓄音機、SPレコード蓄音機の音を聞いた。

その中で、蝋管で再生された曲が面白かったので、曲目をメモしておく。

1909年から10年頃のもので、「ディキシー・メドレー」と聞いたが、そのメドレーは、
Dixie(Daniel Decatur Emmet)〜 My old Kentucky home(Stephen Collins Foster)〜Arkansas traveller〜Old folks at home(Stephen Collins Foster)〜Turkey in the straw〜Aunt Dinah's quilting party

冒頭のDixieは曲名を知らなかったがよく聞く曲。フォスターの2曲(ケンタッキーの我が家と故郷の人々)も有名。藁の中の七面鳥はフォークダンスで踊っているし、Arkansas travvellerは数年前にダルシマーで覚え、最後の曲(ダイナおばさんのパーティ)は先月覚えたばかりの曲。これらが最初のDixieのマーチのテンポで続いている。知っているメロディーが次々と出てくるのは楽しい。
author:Yoko Aoki, category:見た!, 20:56
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展覧会のはしご
2015.06.08

朝1番で日本リアリズム写真集団主催の第40回全国公募写真展「視点」へ。昔の職場の先輩が入選し、作品が展示された。そこへ昔の仲間が集まり、久しぶりの再会。
12時に上野を出なければならない人がいるため、10時半には会場を出てお茶と昼食。その後、もう少し時間のある2人でお茶してから、武蔵野美術大学へ。

「ポピュラー音楽の世紀」。武蔵野美術大学に寄贈された、中村とうよう氏のコレクション展。

1969年創刊の『ニュー・ミュージック・マガジン』も1980年に誌名変更された『ミュージック・マガジン』もほとんど読んだことがなかったし、1986年の『大衆音楽の真実』はその厚さに恐れをなし、手にとることもなかったが、ほぼ年代順に並べられているレコードのジャンルは、私自身のワールドミュージックへの興味と重なるところがあり、面白かった。

例えばとうよう氏にとって、1977年はアフリカ音楽元年、1984年はインドネシアのクロンチョンやスンダ・ポップ。私がそういう音楽に興味を持ったのはいつ頃だったのだろう。

「アジアン・ポップス」と背に記入したクリアブックの最初に入っているのは1990年国際交流基金アセアン文化センターによる「東南アジアポップカルチャー講座」のテキストだ。その年、初めてヴァカンスでマレーシアに行った。その時点ですでに、シーラ・マジッドの「Sinaran」(1989/9/27)を持っていて、飛行機の中ではマレー・ポップスを聴き、空港の売店でシーラのような曲はないかとカセットを探した。

KaomaのLambadaがヒットしたのは1989年、映画「タンゴ・バー」も1989年。多分そのあたりから、東京で世界料理を食べ歩くことも始めていた。音楽もアラブからアフリカ、ヨーロッパの民俗音楽へ、またラテン音楽へと広がっていったような気がする。

私の興味の展開を思い出すには、CDの整理をしなければならないということに気づいた。
author:Yoko Aoki, category:見た!, 23:23
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